言葉を生ける、という言葉はあまり聞いたことないがないが、詩を聲にして空間に放つ時の感覚にこれ以上ぴったりな表現は他にないように思える。
それはやっぱり、私が子どもの頃からずっと生け花に親しんできたからなんだろう。
それも、型を持たず空間を重視する「間」の生け花に。
ここにある植物で、ここにある空間に、いのちとしての花を生けていく。
生ければ自ずと断つべき枝も見えてきて、あるべき様子におさまった時、そこは全体で一つの生命体とでも言うべきものになる。
それはまるで、より大きな自己への変容の過程を見ているかのよう。
図らずも「べきべき」重ねて書いてしまったけど、「べき」はいつもはあまり使わないようにしている言葉だ。
いつもは、というより、これまでは、と言った方がいいのかもしれない。
「べき」は強い言葉だし、もちろんこの世に本当にす「べき」ことがあるのかどうかは知れない。
だけどやっぱり、強い言葉も時には恐れず使ってみたい。
私はこうすべきだと思う。
と、堂々と言ってみたらいい。
ここにある言葉で、ここにある空間に、いのちとしての言の葉を生けていく。
「生ける」とはよく言ったものだ。
花も言葉も、それ自体ですでに存在はしているが。
人の確かな意図で然るべき場所に配置されれば、それは瞬時に鍵紋様となり、閉じられていた目の前の空間を浮かび上がらせる。
雑多な気配に沈んでいた世界に、再び生き生きとした生命力を呼び覚ます作用がある。
生けることは自らの世界を生かすこと。
それが可能なのは、やはり人間に心のあるゆえだ。
2025.7.10 末富 晶


