心からの願いを口にした時、すかさずそれを周りから否定されるという体験は、そうしようとする意志を持った多くの人が経験するイニシエーション、つまりは通過儀礼なのではないだろうか。
かくいう私もあれは小学校高学年くらいの頃、ある宣言が心におりてきてそれをそのまま口にした時、周りにいた大人たちに嗤われた記憶がはっきり残っている。
はっきり残っているくらいだから、それほど強烈な印象がそこにはあったはずだけど、不思議と傷ついたりすることはなく、むしろ
「分かってないのはそっちの方だ」
とか
「今に見ておれ」
とか
意外なほど強気に闘志を燃やした瞬間でもあった。
でも多分、その時その周りにいてくれた大人たちはただその役割を担ってくれただけで、誰が悪いわけでもなく、その通過儀礼はやはり必要だから起こっている。
その一回だけでもなくて、何度も何度もやってくる、
「本当にそれでいいのか」
という確認。
その度
「もちろんだ」
と答える。
答えた瞬間は自信満々だが、少ししてから、本当に良かったかな、と不安はくる。
だってこの道を行く人を他に見かけやしないんだもの。
だんだんと夜になり、暗い森に入っていけば歩みが止まりそうにもなる。
朝日が昇るその時まで、焚き火のそばで待つことになる。
自分の道を行くってことは
自分の旅をするってことは
多かれ少なかれ、そうした時間を歩むことなのかもしれない。
もちろんずっとひとりぼっちではないし、
実はいつもひとりではなかったのだけど
あくまでこれは心の中の話だ。
「私の体験は多くの人とは別のものだから、今感じていることを書いて、大人になったらみんなに伝える。
きっとその行いには価値がある」
と、あの時の私は声高らかに宣言していた。
今、その通りの未来になっていることを
必然のようにも、奇跡のようにも、感じている。
2025.8.11 末富 晶


