昔の言葉が返ってきている。
帰って、と書いた方が正確なんだろうか?
とにかく忘れていた記憶が、次々に蘇る出来事が少し前から続いていて。まさに芋蔓式、といった感じで、一つをきっかけに次のまた一つ、と思い出されていく。
先日スターポエッツギャラリーでその一片をお披露目した『アケビとカグヤの十五夜』という小説もそうなのだけど、20年近く前のものだったり、はたまたもっと過去のものだったり。
もはや発掘と呼んでもいいような状態まで、過去に書いたものの掘り出しが進んでいる。
この間はついに押入れの中から古のフロッピーディスクを見つけた。
昔々は、ワープロで物語を書いていた時もあったのだ。
読み取る本体のワープロはとっくの昔にないけれど、調べてみればありがたいことにフロッピーをPC用にデータ変換してくれる会社があって、そこにお願いしてなんと三十年近くぶりの過去の自分の言葉を読むことができた。
覚えているものもあれば、覚えにないものもあり。
読んで思い出すこともあれば、読んでも書いたことさえ思い出せないものもあり。
詩、短編小説、長編小説の途中まで。と内容も様々で。
詩に至っては自分で覚えていたものの続きがあったりなんかして。
そうだったのか!と合点したり。
思わぬタイミングで受け取ったタイムカプセルに、わくわく心が弾む。
よく書いていてくれた。残していてくれた。
もう読み取れないフロッピーだからと、捨てないで良かった。
14か15の自分の言葉に、確かに幼さも感じるけれど、ぜんぜん変わってないな、という思いの方が上回る。
その人が根底に持っている本質的な言葉の音は、生涯変わらぬものなのだろう。
当時の私が全く意図せず書いたであろうその言葉の、もう一つ深い意味を、今の私が読み取れるようになっていたりもする。
知らず知らずのうちに大海原とつながって書いた言葉には、書き人の意図を軽々と凌駕する何かがのせられていることがあって、ある種暗号めいている。
それらを今から紐解けるとは。こんなに面白いことがあるだろうか。
無自覚に蒔いた種も、然るべき時がくれば芽吹き、花咲き、実る。
収穫に忙しいが、新たな種も忘れずここに蒔いていこう。
2025.7.13 末富 晶


