前回と前々回と、少々真面目に書き過ぎてしまった。
いかんいかん。いや、いかんことは何もないのだけど、こういう気の抜けた文章も随所入れていかねばいかん。
とはいえこれをsnsでシェアすることはないかもしれない。
よほど物好きな方のためにひっそりとしたお宝としてここに置いておく。そういう記事がすでにいくつかある気がする。
ひっそりとしたお宝で思い出したのだけど、この間、庭で茗荷を収穫している時に、恐らくものすごく昔に子どもの私が忘れ置いたままになっていた青いビー玉を発見した。
あの頃はシルバニアファミリーにハマっていて、うさぎ家族の結婚式の会場として庭を森に見立てて遊んでいた。
緑の草の上に人形やら何やら色々と配置して、使い捨てカメラで何枚も写真を撮った記憶があるけれど、あの写真はどこへ行ったのだろう。
とにかく多分、それくらいの過去から今へと時を経てこの青いガラス玉は私の手元に帰ってきたわけだ。
そう考えると、どこにでもあるただのビー玉もなんだか特別なものに思えて感慨深い。
こんなに色んなことをどこまでも紐づけて考えようだなんて、人間というものは本当に不可思議な性質をしている。
と、いうことを考えるだけでなく、つらつら書くこともできる。
書くと次の考えが浮かんでくる。
少なくとも私は、いつでもその着地点を知らずに文章を書いている。
文章というのはどこでも書けるのが良いところだ。
流石に「何がなくとも」とは言えないけど。PCがあれば、スマホがあれば、紙と鉛筆があれば、言葉を書くことそれ自体はあまり環境を選ばない。
もちろんあまりうるさ過ぎたりすると気が散るし、街中のありとあらゆる想念が渦巻く最中などは望まぬことを拾ってしまったりもするのだろうけど。
ラジオの録音は周囲に丸聞こえで環境に気を遣うけれど、一人ひっそりメモをとるのは思いついた時にすぐできる密やかな楽しみである。
その楽しみは、うまく言えないけれどただ単に楽しいだけの刹那的な楽しみとは異なる。
きっと自分しか知らないと思える楽しみこそが、こうして先の未来にも繋がっている確かな楽しみだ。
だからそれを行う時には、本当は、もっと胸を張っていて良い。
では証明してみせろと言われても、その証明には時間がかかる。
現に私の場合は30年もかかっている。
その青いガラス玉を再び手にできるまでに。
そのことをこうして、言葉にできるようになるまでに。
なんの話だったか。
真面目に書き過ぎたからいかんいかんと言っていたのに、結局なんだか真面目な話になっている気もする。
実は青いガラス玉というのは、私の心の中の、何かとても純度が高いもののメタファーでもある。
だからそれが土の中から現れた時、やっぱりそこにある事実以上に、特別な意味を見出そうとしてしまうのだ。
当時つくった歌を、ここに載せておきたいと思う。
青いガラス玉みたいな月が出てたら
どうか記すことなく
今宵限りの歌として歌って
2025.8.17 末富 晶


